浅利氏の由来(比内)

=真澄記=

秋田の北、比内の付近に独鈷という集落がある。 

その独鈷村の山陰には上野という所があって、行基菩薩が作ったという大日如来の堂がある。 

雪の中にいかめしく建っているが、杉木立の中はかつて浅利氏が住んだ跡だとか。 


遠い建仁の初め、鎌倉の軍に越後国の鳥坂の軍が敗れて、越後守平朝臣資永の妹、板額御前が藤澤四郎清親に囚われの身になって、鎌倉に引かれてきた。 

やがて、頼家公の御前に召された。  

「女ならば流してやろう」との仰うせに、浅利興一義遠が「この囚人を我にあたえたもう」と言った。 

将軍は「どんな理由があって朝敵の女を、何の得があるのか?」、 

興一は「世に名高い武勇の誉ある女房であれば、私の妻にして良い弓取りの子を作れば、きっと帝を守護し奉ることでしょう。」と言う。 


頼家は「蓼食う虫も、苦虫はむ虫も好き好きとは言うが、このような醜い女を望むとは、義遠は物好きだ。」と笑って下げ渡した。

興一は喜んで共に甲斐の国にいざなって末永く暮らした。  


その後300年の年を経て、後奈良帝の天文七年の文月の頃、甲斐の国を出て、父朝頼とともに興一則頼が陸奥の津軽の郡に住んだ。 

またその後に、比内の郡に至って、家の風格高くして独鈷村に住んだ。 


則頼の子、民部勝頼の代になって、その子興一頼平と秋田城介實季と戦さに及ぶこととなった。

浅利の士気は高く、その時は城介を打ち負かした。 

 

将軍秀吉は御前に實季、頼平を召されて、「この後、いさかいを起こして軍を交えれば、国を召しあげる。」との仰せがあり、争いは止んだ。 


しかしながら、實季の心は安らかではなかった。 

計って、實季は扇田の城を訪ね、浅利民部勝頼に会って酒を酌み交わした。 

浅利には、昔、實季に仕えた生内権助を言う者がいて、實季と通じていた。 

権助は、酒席の最中に、實季の目配せのもと、いきなり勝頼を討った。 

権助の事前の根回しがあって、浅利の家来衆は騒ぎもせず、浅利家に名のある者は戸を閉ざして一人も来なかった。まして刀番は、図って太刀の鞘に藍水を流しておいたほどであった。 


生内権助は、今ぞとばかりに落ち延びる。 

息子の興一頼平は、それを聞くなりわが子頼廣を連れて馬に飛び乗り、尾組内という所で追いついて「親の仇、祖父のあだ」とて権助をうちに討って、扇田の館に帰ってきた。 


勝頼はうす手であったが、これまでの戦に疲れ、ついには天正十年の戦で戦死することとなります。 

頼平は父の討ち死にの後、しばらくは津軽に居て、比内を攻めようと城介實季と争ったが、大阪の将軍(豊臣秀吉)の聞こえるところとなった。 

 

後、時は慶長三年、場所は大阪。 

頼平は、甲斐よりつき従った家来の子等、杉沢喜助、片山駿河、佐藤大学等から、大阪にて毒殺されることとなる。 

この後、浅利家は滅亡、噂によれば、頼平が死去してのちの浅利氏一族は、佐竹氏に鷹匠として仕えて、近世に生き残ったと伝えられている。  

真澄:浅利氏が住んだという楽森

独鈷の大日堂

浅利氏が住んだ楽森も今は畑