安部愛季祈念の観音

=真澄記= 
観音の堂がある。円通山の額は月舟和尚の掛けだ。廣大寺と額があるが、すすけて誰が書いたかわからない。 
秋田城介實季が今だ幼い時、重い病にかかった。父の愛季は観音に深い願掛けをして死ぬ命を助けたと言う言い伝えがある。 
箭掘(愛季の館:桧山安東氏居城)の館よりここに来て、観音堂を造り、三十三石の稲を寄せた。 
三十三年たった今も、錦を飾っている。 
堂の上には蛇が多く、童がこれを打とうとすると、手向かってきて大きくなり、「私はここを守るオロチだ」と言ったそうだ。

 

<桧山安東氏>

=AKOmovie記= 
東北北部を治めた安東氏は、その先祖を前九年の役で倒れた安部貞任の息子「高星丸」とされています。 

「高星丸」は貞任の死後津軽に逃れ、その子「月星丸」と共に津軽藤崎に城を構えます。(1082年) 
ここに津軽の地頭職であった安東氏と安部一族の合体が行われたわけです。 

その後、安部一族は安東氏として南部・秋田を攻略、安部愛季は比内を治めました。 
愛季は桧山城に住み、桧山安東氏として興すこととなりました。(1562年) 

愛季の子供である實季は、その後南下し、秋田土崎に湊城を構え、秋田を治めました。 
實季は秋田城介を任ぜられ、その後「秋田實季」を名乗ることとなります。