十文字村始め(十文字)

=真澄記= 

十五野原では、旅人が吹雪のおりには方角がわからす踏み迷い、酔った人などは足もしどろに小路に迷った。 

「これは狐のしわざだ」と自分が狐を誘っているとも知らず、噂したものだ。 


増田村の通覚寺の閑亭の主人の天瑞師が、石を猩々(しょうじょう:注)の形に彫って、迷う旅人や酔った人への示しとして、「猩々の左は湯沢、右横手、後ろは増田、前は浅舞」と戯れ歌を石に彫った。 

ほうじぐい(境界の杭)の事なので、往来の人々は皆口ずさんで、童までこの歌をよく知るようになったと言う。 


その後、文化十四年の春、伊太郎と言う者がこの辻に家を建てて茶屋を始めた。そのため、行きかう人や旅人がたいそう力を得たと言う。 

また、文政二年に春吉蔵という者が家を作り、その年の秋に金助が、また清介・正七・松之助・久太郎・新太郎などと家が建ち、九戸の村となった。 


(注):しょう‐じょう【猩猩】=広辞苑= 

中国で、想像上の怪獣。体は狛犬や猿の如く、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む。 

よく酒を飲む人。大酒家。


=すみません= 

どうしても猩々の画像が欲しかったものですから、「秋田県横手市ホームページ」 から拝借しております。すみません。 

このホームページに、 
高さ87cm、幅43cmの石像で、謡曲に登場する「猩々」の姿を形どり、酒がめを前に右手に柄杓、左手に盃を持っている。 
酒がめには「猩々の 左は湯沢 右よこて うしろハます田 まへハ浅舞」と刻まれている。 

最初は羽州街道と増田(浅舞)街道の交差する所(現在の駅前交差点)に建てられ、のち佐藤金兵衛家の裏、さらに栄昌寺地蔵堂内に移され、しばらく地蔵さまとして祭られた。 

現在は十字館に保管・展示されている。 とあります。