五社堂の縁起(男鹿)

本山から南、門前町へ下る途中の赤神神社には、国の重要文化財にも指定されている「五社堂」があります。 

なまはげ(五匹)をまつったとも、比叡山延暦寺の山王七社を勧請したものとも伝えられています。 

社殿は江戸中期ですが、中央堂内厨子は鎌倉時代から室町時代に建築されたもので、真澄なりの考察が加えられています。 


=真澄記=    

小鹿の介に三人の子がいた。 太郎を小鹿卿、次郎を彌五郎、三郎を鹿治郎と言った。 

次郎の彌五郎は、地頭河崎殿へ仕え、三郎の鹿治郎は出家して前山に住んだ。 


文治元年の頃、あやしい舟が男鹿の島へ着いた。 小鹿卿が見て、その理由を聞いた。

舟の君は「今は何の隠し事があろうか。

私は孝謙の帝の孫で、武内宿禰の次男、眞咋の末子で、健内伊賀卿紀眞清という者である。安徳帝の御味方をしたが、平氏の運がなかったことで、ここに逃れてきた。」と言った。 


年月を経て、正治二年、この君が亡くなった。 

亡がらを深山に隠し祀り、了心信士と戒名をつけた。 その後、三王の神として祀った。 

三王の社は、康平の乱の時、地頭安部季治の祈りのため作られたものである。 

その三柱の神は、秘めたる事で分からない。 三王を今は山王として祭るところもある。 


この三柱に、赤神と小鹿卿を合わせ祀って、五社といったものか。 

赤神山五社堂

五社堂999の石段

姿見の井戸