=真澄記=
慶長七年のことである。
太平城(脇本城)の主である安部五郎友季、秋田の城介寛季ともに互いに討とうと企てていた。
その仲の悪さは、「雄猪鼻の井戸水が枯れ果てたのは神の諭しだ。」と人々に言わせたほどだった。
ある年、波の寄せる音かと聞こえたが、それはやがて鬨の声に変わった。
城介寛季が兵を出して太平城を囲んだのである。
友季は寸でのところで城を脱出した。 やがて、城介寛季の軍は、城に火を放って退いていった。
安部五郎友季には、甲斐の国より来て友季の仕えた男鹿の村の長、森本有全という忠臣がいた。
有全は「我が命に代えて君を守る」と友季を屋敷奥深くかくまった。
やがて城介寛季の兵がまた押し寄せてきた。
「友季を隠した者があれば、近隣の者も皆同罪として処罰する。」との文をまいた。
男鹿の住人はとまどい、やがて友季は「虜になって死すよりは」と腹をかい切って果てた。
森本有全は見つかったが、忠臣を評価され、この国を追われて甲斐の国へと帰っていった。
やがて城介寛季もこの太平城に移り住んだと言う。
近くに天満宮の祠がある。
友季も寛季も共にこの御神を朝な夕なに祈り、同じ海のかなたの光景を見ていたのだろう。
真澄の描いた脇本城付近
脇本城跡
脇本の天満宮(菅原道真)