＝真澄記＝

十和田湖に美しい女神が住んでいました。 

毎日糸を紡ぎ、機を織って暮らしていました。 

「きっこん・ぱったん、きっこん・ぱったん」 機の音は、湖の岸辺のブナ森やエゾ松の林に響きわたり、女神の歌う唄は、白い山、黒い谷へも流れていきました。 

秋田の男鹿半島には赤神が住んでいました。 

八郎潟のほとりで笛を吹き、弓をならして、牡鹿の群、牝鹿の群を追って暮らしていました。 

雪解けの水が、どうどうと男鹿の海へ注ぐ頃、赤神は米代川に沿って、高い山、低い山を越えて行きました。 

険しい山の頂に立ち、天にもとどくほどの背伸びをして遠くを眺めると、雲と雲の間から一筋の光が射して、豊かに溢れる湖を見ることができました。 

赤神は喜びのあまり、笛を吹き鳴らし吹き鳴らし近づくと、そこには十和田の女神が居て、赤神が来たのも知らずに機を織っているのでした。 

一目見るなり、赤神は女神を好きになりました。 

それからというもの、赤神は鹿を捕れば鹿を、鱒を捕れば鱒を土産に、十和田の女神を訪ねて、その姿に見とれ、その唄に酔うのでした。 

八甲田山のはるか遠く、灰色の波騒ぐ海と陸の境の竜飛岬に黒神が住んでいました。 

黒神は氷で研いだ剣を腰に、いばらのような髭を八方に突きだして低い空と大地の間を治めていました。 

ある時、虫の居所が悪くて、黒神はごうごうと嵐をおこし、おとなしい岩木山の周りを七度駆けめぐり、しまいには八甲田山に登って、その頭を蹴散らしました。 

すると、たなびく靄の向こうから十和田の女神の唄が聞こえてきました。 

それを聞くと黒神の虫も一度におさまって、いばらの髭はたちまち柳のように萎れてしまいました。 

黒神は目を細め、藤つるのように絡まった髪をなでて、自分の足音にも気を配りながら十和田湖へやって来ました。 

そして、一目みるなり、黒神も女神が好きになったのです。 

それからというものは、鮭、鱒、鯨、海の幸、山の幸は言うにおよばず、手当たり次第の宝を担いでは、女神のところへやって来ました。 

深い緑の衣の色はいよいよ輝きを増して、十和田湖にも夏がやってきました。 

しかし女神の心は暗い底に沈んでいました。 

この春、やさしい赤神の真心を受けて、一度は赤神を心に決めたものの、やがて現れた黒神の雄々しい姿も、今は無碍にはうち消すことはできなくなっていました。 

「きのう、黒神が竜に乗って訪ねて来た。今日は赤神の鹿が、山を越えて使いに来る…」 

黒神の姿を目に浮かべ、また赤神の言葉を思うにつけ、女神の心は乱れ、機の上に涙を落とすと、十和田の水鳥も山鳥もホロホロと悲しい声で一度に鳴きました。 

まもなく女神を囲んで黒神と赤神の顔を合わす日が多くなります。 

赤神は黒神を憎み、黒神は赤神を憎んで、やがては自分が神であることも忘れて、「十和田の女神はおれのもの」「いや、おれのものだ」と争うようになりました。 

争いは激しい戦と変わります。 黒神は、黒々と渦巻く雲をおこし竜を飛ばして襲ってくる。 

赤神は、数知れぬ鹿を繰り出し、野山を埋めて黒神を迎える。 

山鳴りは四方の山にこだまし、十和田湖は波を盛り上げて悲しい叫びをあげました。 

その時、みちのくの八百万の神たちは、津軽の岩木山に集まって、この戦の行く末を見守っていました。 

黒神が勝つという神々は右手に、赤神が頼もしいという神々は左に、いつの間にか見物の神々も二つに分かれて眺めています。 

黒神方は六・七分。赤神方は三・四分。 

右手の神々はその数も多く、手を打ち足を踏み鳴らして騒いだので、そのために岩木山の右の肩は、踏み崩されて低くなったそうです。 

さて、はるか戦の様を眺めると、、、、、、 

黒神の竜は雲の上を飛び下を飛び、赤神の繰り出す鹿の群を天空高く吹き上げていました。 

牡鹿の群、牝鹿の群は二つに分かれ、空の向こうへ光って飛んでいく。 

そして黒雲の下の地上は、赤神の血で一度に紅葉に包まれてしまいました。 

赤神は黒神にじりじりと追われて、野山を赤く染め、ついには男鹿へ逃れ、涙を降り飛ばして、男鹿半島の荒波さわぐ磐の中へ姿を隠しました。 

黒神は勝ち鬨をあげて、しばらくは雷鳴が鳴り止まなかったそうです。 

渦巻く雲が切れ切れに飛び去り、再び金の光、銀の光が野山に注ぐと、戦に勝った黒神は今は心も静めて、十和田の女神を妻に迎えようとしました。 

けれども、透き通る青さを取り戻した湖のどこにも、女神の姿を見ることはできませんでした。 

女神は負けた赤神がかわいいといって赤神の後を追い、男鹿半島へ行ってしまったのです。 

戦には勝ったが、女神を失った黒神は、すごすごと津軽の竜飛岬へ帰って行きました。 

山々はひらひらと木の葉を落として、まもなく空には雪が舞い始めました。 

黒神は十和田湖をふりかえり、ふりかえり、やさしい女神を忘れることもできず、やがて十和田湖には背を向けて、北へ向かって大きなため息をつきました。 

その溜息があまりにもひどかったので、大地はメリメリと音をたて氷のように裂け、そこへ東の海、西の海が白い泡を蹴散らして流れ込み、深い霧をふきあげました。 

そして、この時から津軽と蝦夷は離れてしまい、今の津軽海峡ができたといいます。