田楽舞(平泉)

=真澄記= 
太秦(うずまさ)の牛祭とて、、王の鼻の仮面を被り、竹の子などを持って牛に乗り、松明(たいまつ)を振って摩多羅神の御前を走った。 
この事は、弘法大師の祭文(さいもん)があり、『都名所図会』(みやこめいしょずえ)に紹介されている。 

<<摩陀羅神の祭>> 
まず、篠掛(すずかけ)の衣を着た優婆塞(うばそく)が現れ、「八雲たつ出雲八重垣つまごめにやへがきつくるその八重垣を。」と、太鼓を高く打ち鳴らしながら謡(うた)う。また、「千代の神楽を捧ぐ。」と謡い、法螺(ほら)を吹いて、神へをお供えをする。 
隆蔵寺の法印、紅色の衣の摩陀羅僧が、皆水晶の数珠を手にして台の上に座り、多くの衆徒が見守るなかを優婆塞が入って来る。 

読経の声尊く響き、常行三昧という仏事が行われた。梵唄などが謡われ、阿弥陀経を読経しながら立って、神の御前を廻り、また、柳の牛王と言うものを長い竹に夾んで、捧げ持って神の御前を廻る。 
これが終わると、例の優婆塞が再び登場し、法螺を吹き、太鼓を打てば、神前に捧げた様々なお供えものを壇から下ろしてす。円をなしていた衆徒は、これをいただき御神酒なども配られる。 

この直会(なおらい)が終わると、衆徒がひとりがすすみ立って、声を張り上げて、「上所(しょうどこ)、下所(げどころ)、一和尚(いちわじょう)、二和尚(にわじょう)、三和尚(さんわじょう)、その次々(そのつぎつぎ)の下立新人(げりゅうしんにゅう)まで、穀部屋(こくべや)へ入給(イリタマエ)と申せ。」と、長々呼ぶのである。 

これを喚立(よびだて)と言って、中老の役目である。御仏の脇の方より、承仕と言う宗徒が一人出て来て、「上所、下所、一和尚、二和尚、三和尚、その次々の下立新人まで、こくべやへいらひたへと申す。」と、言うのをを聞いて、集まっている祭見物人の中から、「瓠鎗(ふくべやり)で突くと言うが、痛い・痒いと申すな。」と小さな声で真似をすれば、周囲から大声でどよめき、笑い声が絶えなかった。 

<<田楽舞>> 
そして急に「田楽舞」が、始まった。 
高足、腰鼓(くれつづみ)などとは、姿が変わっている。ここで舞う田楽の小法師たちは、胡桃の木の皮で編んだ大笠の軒に、垂(シデ=白い紙で作った神に捧げるもの)を付けたものを被り、山吹色の広い袖の衣に袴を着けて、桶のフタのような薄い太鼓を胸に抱えて、三人で舞う。これは竿に登り、飛び踊っている。 

鳥帽子に弊(しで)を取り付けた者が出て来る。これを「してでん」(シテ出んか?)と言う。 
物の上手のことを、もっぱら仕手(シテ)と言うが、本来「師手」だろう。能にも師手(シテ)と脇(ワキ)がある。『源平盛衰記』に、”知康は、屈強の「してでい」の上手にて、つづみの判官と異名によびけり”とあるのも、この師手弟(シテテイ)の意味だと言える。 

小鼓、銅拍子(どうびょうし)、笛、編竹(ささら)で、囃し立てて、堂内を廻って踊れば、多くの衆徒が太鼓を打って、「そよや、みゆ、ぜんぜれ、ぜんが、さんざら、くんずる、ろをや、しもぞろや、やらすは、そんぞろろに、とうりのみやこから、こころなんど、つづくよな」と謡う。 
これを唐拍子(からびょうし)とて、とても、聞き分けられなく難しい。 

この唐拍子が終わると、弊(しで)を掛けた鳥帽子を付けた若法師が、ひとりひとり踊る。里の人はこれを「兎飛(うさぎはね)」と言う。この曲が終わると、黒い仮面を付けたうら若い衆徒が出て、あられもない格好で、戯れた様子で入って来る。その様は、能の狂言のようで、合間合間の戯れである。 

次ぎに三冬(さんとう)の冠と言って、笏(ねぎ)のようなものを三カ所立てる様子は、熱田神宮の正月十一日の「べろべろ祭」に、兆鼓(ふりつづみ)を振る神人(こうにん)の冠のようなものを頭に乗せ、白衣を清らかに着て、王の鼻の面を被って、左の袖に水晶の数珠を掛け、鳩の杖をついて、右手に白幣(しらにぎて=御幣束)を持ち、桑の弓、蓬(よもぎ)の矢を背負って、祝詞(のりと)を立って唱える。 
しかしこれが秘め事のため、声が少しも聞き取れない。そこにまた例の小法師が多く現れて、鈴をうち振って、戯れ唄を唱いながら賑やかに入って来る。 

<<老姥舞>> 
老女の面をつけた者が、神の御前にひれ伏し手を合わせて拝み、それが終わると、髪を整える真似などをして拝礼して立ち上がると、よろけて倒れ、老ぼれてしまったような仕草で踊る。 
これをを「老姥舞」と言う。 
老姥舞に入ると若小法師は、妊娠した女性の真似をして周囲で戯れる。 

<<坂東舞>> 
やがて若女の面に、水干(すいかん)にみだれあしの絵を縫い取った精巧な柄の袴を着て、手には鈴と扇を持って舞う。これを「坂東舞」と言う。 
また、禰宜が布衣、烏帽子で二尺ばかりの竹の尖(さき)に、藁を輪にして結び、これをもって舞う前にうずくまる。 

坂東舞が終わると、付け髪の法師が現れて、「私は旅の者だが、楽屋の人から「沢山の人を笑わせて来い。」と頼まれて出てきた。皆が笑えば、私の仕事は終わるから、皆笑って欲しい。」と言えば、皆大声で笑うと、「よしや。」と言って楽屋へ戻る。 
今度は小法師が二人出て、「王母が昔、花の友・桃花の酒を伝えた。我の時代まで栄華の袖をひるがえす。」と唄って入ってくる。「さあ、一緒に歌おう・踊ろう。早く、早く。」と誘っても、誰も出ない。結局小法師だけが歌って帰っていった。 

<<京殿>> 
京殿が出た。「我は都堀川の辺りに住む左少辨富任である。太子二代(堀河院・鳥羽院)の近習で、勅命をいただき、青龍寺、白馬寺の旧法を伝えた。」と長く語り、「のう、有吉よ。小人宗徒の前でひとつ舞おうか。」との言葉。 
有吉は「ほう、比叡の山は三千坊、坂本は六ヶ所、大津の浦は七浦八浦九浦十浦、粟田口、かじむろ、土打てば、”ていてい”とはこれいかに。」と、太鼓の小鉢のようなものを手に持って舞う。 
「都を出て街道はるばると、日数経て東国の旅にも慣れたが、京を偲ぶもすりごろも、松山越えて衣川、その御前こそ恋しけれ。はつと言う御前が、口の小さな小銚子で澄んだ濁酒をついでくてた。この御前こそ恋しい。 
十二単の絹のつまをとって、一首詠んでくれた。=冴える夜の月に あやめは見えにける ひく袖あらばともになびかん= 
有吉の返歌=わが殿の 東くだりのよなよなに 御前ありよし月をながめん=」 
と舞えば、有吉もまた舞う。また、富任が謡えば、有吉が烏帽子を打ち振り舞う。 

<<女郎花>> <<姥捨山>> 
やおら法師が入って「延年」をいう謡曲があった。それは「女郎花(おみなえし)」「姥捨山」「とどめ鳥」「そとわ小町」を二年にわたって舞う習わしだが、このたびは女郎花(おみなえし)」「姥捨山」を舞うと言う。 
恐ろしげな面をつけ、髪や髭がのびた男が入ってきた。また同じように女の面と乱れた髪の狂女の姿も出た。 
女 「も~し、旅の人に尋ねたい。」 
男 「いかにしたか。」 
女 「原部山(はらべやま)を越えて、善光寺へはどう行けばいいのか。」 
男 「何の物見で行くのか。」 
女 「私の連れの男、幼少五つの頃、親と別れて叔母に養育されて大人になったが、親を恨んで、八十になる老母を原部山に捨て置いて夜奸の餌食にした。その怨霊で狂ってしまった。」 
男 「姥捨山とは、思いもよらず原部山のことであったか。」 
かく、互いに踊って、諏訪の宮奴(みやっこ)も出て謡い踊った。