義経の最後異聞(平泉)

=真澄記=

上編義経蝦夷軍談、高館のくだりでは

源頼朝に追われた義経は、平泉の藤原秀衡を頼って平泉に逃げるが、秀衡はまもなく病死する。その子藤原泰衡は頼朝に抗いきれない。泰衡は義経を蝦夷へ逃がす決意をする。

 

義経も増尾権頭兼房との別れに涙したが、郎党杉目太郎行信は義経の顔に似ているので、身代わりとして大将となった。常陸坊海存も仔細承知で城に残り、高館に押し寄せる敵を迎えた。

 

文治5年閏4月29日、泰衡の弟本吉冠者高衡を大将とした一軍が衣川を渡り押し寄せる。行信は早々に自害し、兼房はすぐに介錯して首を錦の直垂(ひたたれ)に包んで上座に置き、自らも腹を十文字に掻ききれば、これを海存が介錯して、そのまま火を放った。常陸坊海存は煙にまぎれて行方をくらました。

 

後日(文治5年6月7日)鎌倉から使いが来て、「泰衡の弟泉三郎忠衡は義経に師事し、勅命を軽んじたことが叡聞に達し、違勅の罪により急ぎ忠衡を誅すべし。」との勅命であるとの事。

同13日には泰衡の使者として新田高衡が義経の首を酒に浸し、黒漆の棺に入れて腰越の浦まで到達した。

和田太郎義盛、梶尾平三景時らが首実検をした。この結果を受けて腰越に使者があり、「義経の首を討ったのは神妙であるが、これで泉三郎忠衡の罪が消えるものではない。急ぎ忠衡を誅するべし。できなければ泰衡もまた違勅の名で誅される。これは頼朝の計らいではない。勅使の命である。」

泰衡、国衡は「これはいかに!」と驚いたが、こっそり忠衡に使いを出し、次第を告げた。

忠衡は「この上は義経の跡を追って蝦夷に渡ろう。」と旅立った。

 

同26日、勅命に従って泰衡の手勢総勢80騎が泉の館に押し寄せた。忠衡の郎党は館に火を放って戦った。火が収まった頃屋敷を検分すると、忠衡を初めとする郎党の自害の跡があったが、火災のため分別はつきがたい状況であった。

 

泉三郎忠衡は郎党を身代わりに自害させ、屋敷に火を放って裏道から逃れ「一路蝦夷へ行くべし」と落ち、途中津軽深浦へと着いた。頃は6月20日頃となる。

 

深浦は秋田次郎尚勝が海船を持って蝦夷松前を公益して平泉との親交も厚かった。蝦夷へ向かうはこの秋田次郎尚勝を頼ってのことであった。

忠衡は主従10人余りと商人に身を変え、「羽州秋田の者が平泉に商売に行って久しく逗留していたが、今度松前に渡航しようと深浦へ来た。」と偽った。

また、忠衡の計らいで義経の御台と4歳になる姫も身を変えて兼房の一子増尾三郎兼村(16歳の少年)と共に深浦へ来ていた。

 

秋田次郎尚勝の計らいで6月29日の黎明に深浦を出航したが、おりしも逆風で小泊というところに数日泊まって順風を待った。この時松前からの船が一艘港に入った。これは秋田次郎の郎党が松前の者を従え、蝦夷の白紙鼻より来た舟であった。

忠衡主従や御台は皆喜び、急ぎ義経の様子を聞いたが、「義経主従は恙なく松前に着岸し、今は蝦夷白紙鼻という所にいる。」と言う。また、秋田より亀井、鈴木を始め伊勢三郎も亀田から一緒に参って、志夫舎理(しぶしゃり)の軍を打ち負かし、戦勝したとのことであった。泉三郎忠衡と御台はたいそう喜び、蝦夷へ渡った。

 

常陸坊海存は義経に「駒形に帰って神に仕え、君を守る。」と言って暇乞いをした。義経は志夫舎理の大敵を討ったことから名残りを惜しんだが、結局暇をもらった。

秋田次郎も「我もこの島の交易なくば君に巡り会わなかった。この上は我も君に従い、君の武徳を持って仇敵丹呂印(たむろいん)を封しこと、日来の本望である。然る上は一足先に本国(秋田)へ立ち返って妻子に会い、再び戻って兵糧運漕をいたします。」と義経に暇乞いし、常陸坊海存や松前の安呂由(あむろえ)と共に松前より本国へ出帆した。

 

これより後は松前から上の国まで秋田と往来自由となり、たいそう益をもたらすこととなり、蝦夷の人々は人民太平を望むようになった。(秋田には太平山があり、天の河という港がある。天河太平(てんがたいへい)との諺はこのことか。)

秋田次郎尚勝はこれ以降、妻もろとも松前に渡った。

 

過ぎし文治5年8月には頼朝軍の兵が平泉御館を攻め、泰衡が討たれ奥州も鎌倉の手に落ちたことを聞き、義経は涙を流した。しかし、秋田との交易は自由であったため、兵糧は満載で蝦夷に送り、蝦夷の海産物は本国へ渡り、交易は10倍以上に増えた。

また、奥蝦夷の未曾久(みそく)はたびたび蒙古との戦をしたが、義経軍が加わり8年あまりで蒙古を鎮め、蝦夷を統一して太平の行政を行った。

 

秋田次郎も蝦夷に住み、義経も後は未曾久に住んで、末は唐に渡ったと言う。しかし、その家人は蝦夷にて命を全うして蝦夷を治めたと言う。