飛馳(とばせ)森

=真澄記= 
飛馳(とばせ)森というところは、天正十八年の春のころ滅亡した和賀主馬頭の城跡である。 
この主馬という人の先祖は多田薩摩守頼春である。 
頼春の君は、伊東入道祐親の女満幸御前が生んだが、祐親入道が都から帰ってこの児をみて、これは誰か男がいるであろうと問うと、満幸御前のまま母が、「この子は、蛭が小島に流されている者が生ませた、あなたの御孫である。瓜ふたつということばがあるが、それほどよく似ている」と憎々しそうにその児の面を足でなでて、こちらにむかせた。 
祐親は、「なに、頼朝の子であるか、平氏への聞こえといい、また島流しされた罪人のたねでもあり、助けておくことはできない」と意地わるくののしり、「すぐにも深い淵に捨ててしまえ」と命じた。 
しかたなく、殺してしまったと答えて、斎藤五、斎藤六が、曽我太郎祐信などと心を合わせて、この幼い君を人知れず助け育てあげ、頼朝が天下の政を執られる時を待った。 
その時が至り、頼朝が信濃国善光寺に参詣なさるとき、道すがら、この若君のことを申しでたところ、頼朝はひじょうにほめてよろこばれ、梶原をよんで、「どこかの国に二、三万石の土地があろう、これに与えよ。」と仰せられた。 
陸奥のほかにはあいた城がないことを申しあげると、「それにせよ。」と命じられてから、ここに住みなさったのであるといい伝えている。 
斎藤五、斎藤六は、のちに小原、八重樫と名のって、この子孫は今でも南部にたいへん多いという。 
その城の跡に、夏と秋と二度実る栗の木もあるなどと、村長が語っているうちに、日影も傾き、早池峰を向こうに風がたいそう冷たくなった。やがて黒沢尻(北上市)という宿駅につき、昆某という家に泊まった。